ichijyoin0805のblog

2008年05月

昨日は佐世保に行ってきました。
私も2年ほど前から御詠歌(平安時代より巡礼歌として歌い継がれた音律・歌詞)を金剛流九州詠歌青年教師会にて習い始めたのですが、今年の7月1日にその金剛流九州詠歌青年教師会主催の御詠歌公演がアルカス佐世保にて開催されることとなり、その舞台練習が行われたのです。
御詠歌公演ですから御詠歌をコンサートみたいに歌うだけかと思われがちですが、今回は演劇の中に御詠歌が組み込まれているといった公演内容です。

当日は50名程の出演者及びスタッフになるようで、舞台練習も熱のこもったものとなりました。一つの公演が行われるにあたり、御詠歌の練習はもちろんのこと、その公演の企画・立案からはじまり、会場や関係者との交渉、パンフレットの制作、記念品の作成、舞台の演出、大道具の準備等々数多くの人の力が集まってはじめて完成するんだということを、あらためて実感いたしました。

私も数曲出演する予定ですが、急きょ大道具の手伝いもやることになりました。意外でしたが大道具は面白いですよ。演劇は大道具抜きでは絶対に出来ません。一つ一つの場面に使用するアイテムをこだわりを持って作成して、完璧に配置し、決して表に出ない裏方さんです。

人間社会も演劇と一緒で、スポットライトが当たる場面ばかりではなく、下積みや、他人の成功のために尽力することもあるでしょう。それはそれで、自分の役割を認識し、プライドを持ってやるべき仕事をこなしていくことによって、自分のプラスになっていくのではないかと思います。そして、演劇が役者さんや歌い手さんだけで完成するわけではないのと同じで、我々もまた、自分一人生きているのではないということを自覚する機会でもありました。

公演まであと1月ですが、当日は最高のパフォーマンスが出来るよう、準備万端整えたいと思います。
興味のある方は、まだすこしチケット(2000円)もあるようですので御参加下されば幸いです。

現在、当山草創の地、雲仙は、雲仙と書いて(うんぜん)と読まれている。しかしながら、昭和九年「雲仙国立公園」に指定されるまでは、当山の山号である「温泉」と書いて(うんぜん)と読まれていた。
 実際、雲仙は明治四十四年(1911)「県立温泉公園」として発足しているし、国立公園に指定される以前の文献は温泉山と記載されているのである。
 従って本文は、昭和九年(1934)以前を「温泉」、それ以降を「雲仙」とした。

 温泉山一乗院は、大宝元年(701)行基菩薩が仏法紹隆の大願をおこし、現在の雲仙の地に堂塔伽藍を建立したい旨を、文武天皇に申し上げたところ、天皇は大変お悦びになり、免田を寄付して下さり、山号を温泉山、寺号を満明寺とされたのが始まりである。
 当山に伝わる縁起書によると、

温泉山堂塔建立並びに寄進田(当社免田大概)
一、寄進田、大宝元年(701)辛丑二月十五日
一、塔建立、大宝元年十一月二日
一、塔 三所。文武天皇の御願也
大日如来院(坊三百五十二、或いは二百七十五と云う)

 とあり、大宝元年に最初の寺院である大日如来院が建立されているのがわかる。
 この大日如来院建立以降、温泉(雲仙)山内に応善山釈迦堂・金空山阿弥陀堂・生砂山宝生仏塔・無動院・玉砂山阿閦仏堂・蓮華照山愛染院・覚知寺文珠堂・求目田寺薬師堂・辰山寺薬師院、弥勒院・明光寺普賢堂・清空山十一面堂・頂光寺千手院・高来山地蔵堂・住仁寺虚空蔵堂等が寄進により建立されている。その間、宝亀九年(778)の兵乱の間、堂塔が焼失し、その後、光孝・朱雀天皇の時代(884~945)にも、堂塔坊舎、聖教等焼失したと伝えられている。
 これらを歴史的に実証するのは困難であるが、現在まで当山に伝わる縁起書に記載されている以上、軽視出来ない事柄である。
 さらに行基菩薩は伽藍成就の後、四面大菩薩(現温泉神社)を勧請して当山の鎮守としている。当山縁起書によれば、

吾大権現四面大菩薩、本地を論ずれば、三世常恒の法帝、四重円壇の聖衆なり。
一の宮(千々石村)は、東方阿閦如来、発菩提心の徳を主とす。
二の宮(山田村)は、南方宝生如来、福徳荘厳の位に居す。
三の宮(諫早村)は、西方阿弥陀如来、説法断疑の智を住す。
四の宮(有家村)は、北方釈迦如来、成所作智の用に住す。
中宮(温泉山)は、中台心王大日、曼荼の総徳を遍照す。輪円の妙体なり。

とあり、雲仙を中心とした金剛界曼荼羅世界を形成していたことを物語っている。また、この五智如来が温泉神の祭神、速日別命、白日別命、豊日別命、建日別命、豊久士比泥別命の五神に付合することになる。しかしながら金剛界曼荼羅所依の経典である「金剛頂経」は弘法大師空海の請来をまたねばならないので、温泉山満明寺の成立と同時に五智如来を形成していたとは言い難いが、『歴代鎮西要略』によれば、大宝元年(701)温泉神の分身末社として山田(現・吾妻町)、有江(現・有家町)、千千石(現・千々石町)、伊佐早(現・諫早市)の四カ所に勧請したことを伝えているので、その勧請年代は疑わしいにしても、これらの末社はかなり早い段階で勧請されていたものと思われる。

 光孝・朱雀天皇の時代の堂塔坊舎、聖教等焼失の後、永久三年(1115)定僧上人によって再興され、その後、永禄十年(1567)の『肥前日記』によって、大定院、聖徳坊、中輪坊、大刀坊、宝乗坊、東光坊があったことが確認されている。

はじめまして。
長崎県雲仙市の雲仙岳のふもとにあります真言宗御室派一乗院の副住職をいたしております西 泰仁です。この度ホームページをリニューアルしてブログを開設いたしました。
温泉山一乗院は大宝元年(701)に行基菩薩によって雲仙岳(当時は温泉山)に建立されました温泉山満明寺に端を発します。その後、島原の乱でのキリシタンによる焼失や明治初期の廃仏毀釈によっての本坊移転等を経て、現在に至っております。
私は、縁あってこの一乗院に携わっております関係で、寺の歴史を少々調べてみましたが、この一乗院の歴史は島原の乱のみをとってみても日本において特徴的なものではないかと考えております。
現在、「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」のユネスコ世界遺産登録の動きがございます。確かにキリスト教の教会及びキリスト教徒も迫害を受けた歴史がありますが、仏教寺院もキリスト教徒によって破壊された歴史も認識した上で、世界遺産への登録を目指していただければという思いがあります。
よって、少しでも多くの方に、当山の歴史を知っていただければと考え、私の知り得たことをつらつらと書いてみたいと思います。まだまだ調べたりないことも多いですので、ご存知の方はどうかご指導の程、よろしくお願い申し上げます。合掌  一乗院 副住職 西 泰仁

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