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2008年06月

こんにちは。つい先日NBC長崎放送の取材を受けました。ホームページでも紹介致しております「かっぱの手」を7月1日朝9:55分~10:50分放送予定の「あっ!ぷる」で紹介したいとのことでしたので、お引き受けした次第でした。

取材当日はディレクターの柴田さんとリポーターの藤田さんをはじめ5名の方が御来院下さいました。皆さんとても好感の持てる方で、またお会いしたいと思える方々でした。

全国にかっぱのミイラはいくつか存在しているようですが、伝説を伴ったものは少ないようで、数百年前から「かっぱの手」として大切に保管されている一乗院のようなケースは稀だということです。

実際、雲仙が国立公園に指定されるのをうけて昭和7年に雲仙国立公園協会主催で開催された

雲仙国立公園決定祈念祝賀
島原郷土資料展覧会
(温泉山一乗院満明寺宝物展覧)
(島原切支丹資料展覧)

に当山一乗院から出展された20点のなかの第十九号は「川童子の爪」を出展いたしております。つまり、現在当山に展示を致しております「かっぱの手」を寺の宝物として出展している事実が確認出来るのであります。

繰り返しますが、7月1日、朝9:55分~10:50分、NBC長崎放送「あっ!ぷる」にて放送予定ですので是非ご覧下さい。

去る6月15日、宗祖弘法大師降誕の日の20時58分、私たち夫妻の第三子が無事生まれました。元気な男の子でした。これで、わが家は男の子ばかりの三兄弟になりました。

20日の午後、母子共に退院し、それまで病院に連れていっていなかった長男と二男は、弟との初めての対面をすることができました。久しぶりに帰ってきた母親との再会も重なって、興奮状態の二人は、さんざん大騒ぎしたあげく、普段より早く眠ってしまいました。

新しい家族を迎えることが出来た歓びに浸る間も無く、慌ただしい日々が始まったような感があります。

お寺の僧侶として、そして家庭の父親として自分のやれることを見つけて、家族で助け合いながら共に成長していけるよう努めていきたいと思います。

それにはまず健康が第一なので、三男の出産に伴う家族それぞれの疲れを癒し、日々楽しく過したいものですね。

 さて温泉(雲仙)の一乗院は、延宝八年(一六八〇)七月二十七日、寺宇が建立されている。『深溝世紀』(巻八)烈公中七月二十七日条には、

建立寺宇于温泉山、徙一乗院(真言宗)空性主之、古有寺、仍其號曰一乗院
文武天皇大寶元年(一云天平二年)僧行基剏日本山大乗院満明密寺(一云高来山一乗院)于温泉山、經數百年、寺塔益繁衍、小院有瀬戸石原三百坊、別所七百坊、元亀中白雀乱興、瀬戸石原僧徒攻別所、放火悉焼其坊舎‥‥‥(中略)‥‥‥
於是寺逐衰矣、寛永中有馬賊又焼瀬戸石原、卒滅其寺、

とあり、前述の空性が温泉(雲仙)に移って寺宇を建立したことを述べ、先に触れた満明寺の繁栄と白雀の乱、及び島原の乱について記載されている。
 さらに、元禄六年(一六九三)四月二十一日には、一乗院によって温泉山四面神祠(現温泉神社)が改造され、

往時満明寺為祭主、及一乗院再興、復命守祠也(『深溝世紀』巻九烈公下)

とあるように、四面宮の祭主を命じられている。
 また『深講世紀』には島原城主松平忠房公が、元禄七年(一六九四)八月二十九日、元禄九年(一六九六)九月二十七日、元禄十二年(一六九九)閏八月二日に紅葉見物の為に温泉山(雲仙)に登山したとの記録が残っている。特に元禄七年(一六九四)は一乗院にて休んだという記載もあるので、温泉(雲仙)登山の際には一乗院に立ち寄り登山の疲れを癒していたと思われる。
 ここで、触れておきたいのが、当山寺宝の島原城主松平忠房公より授かったと伝えられている磬子である。この磬子には「高来郡温泉山一乗院什物大檀那島原城主松平主殿頭寄附」の文字が刻まれている。もっとも「主殿頭」が世襲制である為、この磬子に刻まれている「主殿頭」が忠房公であるとは断定出来ないが、時の城主から寄附されたものに間違いない。
 さらに、一乗院の寺紋は、島原城主松平家の家門である重ね扇の扇を一枚とり、丸に一乗院の一の字を入れたものである。この寺紋も松平家からいただいたと伝えられているもので、紋の中では珍しいとされる十本骨の扇である。この寺紋について『深溝世紀』(巻十六)定公下の天明十二年(一七八七)四月十七日条に、

公納温泉山四面祠、親書扁額、一乗院聖天、扇章紫絹幕

とあるので遅くともこの時期には使用されていたことが確実である。
 これらのことから見ても、一乗院は島原城下の寺領等を没収されたにもかかわらず、依然として城主から、かなり優遇されていたことは確かである。

 一乗院は、高力摂津守忠房公の時代、島原城下にも約二千坪の敷地をもつ寺院を所有していた。それは江戸時代初期に記された島原城内外古図に一乗院の敷地を確認することができるし、『深溝世紀』等にも島原城下の一乗院関係の文面を確認できる。高力氏封地没収を受けて、寛文九年(一六六九)松平主殿頭忠房公が島原城に入城してからも、城主の寵愛を受けており、『深溝世紀』(巻七)烈公上の寛文十一年(一六七一)三月五日条に

賜本光寺一乗院寺領印書、共百石

とあり城主松平家の菩提寺である本光寺と同格の扱いを受けている。さらに同年城下の東照宮別當も兼帯し、祇園山も管理下においている。しかしながら、延宝五年(一六七七)二月十一日条には、

一乗院主有罪、放温泉山、初院主以偽言誣官吏、事顕、去年命閉門、此日逐之、然温泉山去民家遼遠、無土田充食者、公愍之、賜五人口俸(『深溝世紀』巻八烈公中)

として、温泉山(雲仙)に送られている。この罪とは、『忠房公奥書向御日記』に詳しく述べられており、簡単に言うと、祇園山の管理を任されていた島原の一乗院主空性が、無断で山の下刈を行い詰問を受けた際、奉行がしたとの虚言を用いたことに城主忠房公が激怒し、城下の敷地、及び寺録百石と東照宮別當の権利を没収され、温泉(雲仙)へ追放されたとある。
 一乗院が温泉(雲仙)へ退いた後、島原の一乗院跡地は天台宗の大乗院となり、東照宮別當も大乗院が担当した。
 天和元年(一六八一)一月十七日、大乗院は慈雲山松栄寺和光院となり、明治初期までその法灯を灯していた。一乗院としては、たった一度の過ちにより失ったものは大きく、今後の教訓となるべき出来事であったと言えよう。

今日は3番目の子供の出産予定日ですが、いまだその兆候もなく嫁は庭の花に水をやっております。

3番目は予定日より早いと言われていたので、10日~11日に京都仁和寺(うちのお寺の本山です)で行われた一流伝授も行かずに自坊にいたのですが、こんなことなら行っとけば良かったと思う今日この頃です。
でも、もし出かけている間に出産でもしようものなら一生言われる恐れがあるのでまあ良しとしましょう。

生まれて来る子供には未来があります。どんな未来が待ち受けているか分かりませんが、親として何が出来るかを考え、見守っていこうと思います。

今、二人の息子がいますが子供に親にしてもらったような部分がほとんどです。生まれてくる子供も含めて家族が仲良く元気で暮らせるようお父さんもがんばらねば!

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