ichijyoin0805のblog

2008年07月

今日は、私副住職ではなく妻の周りに虫が出ました。

私の妻は北海道出身で、結婚6年目です。北海道といえば、ゴキブリがいないというのは有名な話で、さらにはゲジゲジなんかも長崎に来るまで見たことがなかったそうです。

結婚したての頃、長崎ではよく見られるクモが部屋に出現し、妻は初めての経験で泣きじゃくり、私がそれを退治しないということで、大げんかになったっことがありました。

そんな妻が洗濯物を干していると頭上から、10センチ強のムカデが頭の上に落ちてきたそうです。妻は、洗濯物を干し終えて台所にやってくると、今頭の上にムカデが落ちてきたと平然と話します。恐らく五年前なら大泣きしていたであろう状況を、この5年余りに数多の経験を積んだ妻は強くなっていました。

その後、私が檀務に出た後も、茶の間にも同クラスのムカデが出て、さらに廊下でゴキブリが降ってきたといいます。そのような長崎県雲仙市のお寺での生活に適応してきた妻に感謝しております。

女は強いですねえ!

 現在、温泉山一乗院は、南串山町水ノ浦に在るが、この地は江戸時代は温泉(雲仙)の一乗院の管轄する末庵、歓喜庵であった。前掲の『温泉山起立書』にもあるように、江戸期は一乗院檀徒の島原半島の西目南目より遠方の葬儀を担当していた。
 伝承によれば、南串山の歓喜庵は寛永十八年(一六四一)弘宥法印により建立されたとされているが、正確な建立年代を示した記録がない。尚、歓喜庵のことを調べる資料として現在、南串山町役場前に歓喜庵の先住墓地がある。そこには、歓喜庵の歴代住職の墓標が南向きに六本、その弟子たちと思われる墓標が東向きに六本の計十二本が現存する。その歴代住職の墓標中、最も古い、當庵中興二世探玄幽榮大法印の命日は、元文三戌午年(一七三八)三月十八日とあり、次いで順に右側に、三世、五世、六世、七世、八世とに建っており、最も新しい歓喜庵八世は文化五年(一八〇八)年に亡くなっている。この墓標群の年代を見る限り、伝承による寛永十八年(一六四一)建立とはいささか年代の隔たりがあるが、当山に現存する過去帳には、万治三年(一六六〇)に葬儀をした記録がある。よって最低でも、この時期には寺院として成立し、宗教活動を行っていたことがわかる。恐らく、歓喜庵は弘宥法印が建立したかどうかは定かではないが、少なくとも十七世紀中頃には現在の南串山の当地に存在し、温泉(雲仙)の一乗院の僧侶たちによって運営されていたが、住職と呼べる程の僧侶はいなかったのであろう。それが、元文三年(一七三八)に亡くなった當庵中興二世探玄幽榮大法印が歓喜庵常住の住職として赴任したため、墓標に中興という文字が入ったのではなかろうか。それ以来、歓喜庵八世が文化五年(一八〇八)年に亡くなるまで、歓喜庵に常住の住職がいて運営にあたったと考えられる。実際、過去帳には、万治三年(一六六〇)に最初の葬儀をしてから現在に至るまで、途切れることなく葬式を行っている。
 当山過去帳には故人の地区名の記載もあり、『温泉山起立書』に見られた島原半島の西目南目の地域の葬儀を担当していたことは、この過去帳からもうかがえる。この過去帳は、当時の一乗院の檀家数及び檀家の分布を知る事が出来る貴重な資料である。
 尚、歓喜庵の建造物について、明治八年の『寺院明細帳』には、宝暦十年(一七六〇)六世宥晴代に聖天堂再建、寛政二年(一七九〇)七世宥勝代に本堂再建、文政三年(一八二〇)八世宥真代に庫裡を再建と記されている。ここに記されている建造物は、いずれも明治八年当時存在した建物で、聖天堂は今も尚現存している。それ以前の記録は残っていないが、いずれも再建とされているので、同様の建造物があったはずである。
 また、前述の当山過去帳の天和三年(一六八三)の項には、

覺賢法師 天和三癸亥 十月 八幡社僧

とあり、この八幡社僧というのは歓喜庵と同じく南串山にあった金藏庵(現八幡神社)の僧侶と思われる。この時、歓喜庵にて葬儀を行っている以上、それ以前から何らかの形で八幡社が存在していたはずである。また、現在の八幡神社(旧金藏庵)に安永三年(一七七四)十二月に書かれた「金藏庵起立之覚」の写しがあり、それによると、金藏庵は温泉山一乗院の末寺で真言宗であること。庵の開基は寛永十七年(一六四〇)で当山中興二世宥誉法印の建立であること等が述べられている。
 また、ここで、生松庵についても触れておく。生松庵の縁起について、『南高郡村誌』(著者金井俊行)には、

真言宗温泉山一乗院ノ末寺、初メ温泉山大乗院ノ末、老松山興善寺、今以テ光善寺ヲ以テ地名トス、寛永中耶蘇ノ乱ニ遇ッテ、大乗院及諸末寺、皆破却セラル、後真言宗僧宥誉旧大乗院ヲ創建シ、宥誉ノ弟子宗安退職後、興善寺ノ後ヲ継ギ本寺ヲ興起シ、旧山号ニ因テ、老松山ヲ老松庵ト号ス

とある。大乗院とは『当山縁起書』や『肥前日記』に見られる大定院のことであろう。また宥誉とは当山中興二世宥誉法印である。これによると、宥誉法印の弟子宗安が、興善寺の後に造ったとされている。『興善寺古文書』を見ると、少なくとも寛文四年(一六六四)には成立していたと考えられる。恐らく歓喜庵並びに金藏庵と同時期に成立したのであろう。

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春季彼岸法要後に着工致しておりました本堂外壁改修工事がほぼ終了致しました。若干の追加工事が発生し、その仕上げがほんの少し残っておりますが、二十三年前の再建当時に戻ったようです。

追加工事の中で、石張りとなった本堂正面階段の両端の手すりの前に、階段に見合った石の柱を建てることになりました。それに際し、本年四月に佐賀県鹿島市で開催された、『真言宗御室派肥前支所檀信徒の集い』にお越しになった仁和寺代四十八世門跡 佐藤令宜大僧正猊下より、お大師さまのお言葉であります『虚空尽き 衆生尽き 涅槃尽なば 我が願いも尽なん』の御染筆を頂戴し、この度本堂正面の両側の柱に刻ませていただきました。

これも、当山住職が本山で奉職させていただいておりますご縁で実現したもので、ありがたい仏縁に感謝いたしております。

このお大師さまのお言葉は、『高野山万灯会の願文』に出てくる言葉で「世の中の人がみんな苦しみから解放され、本当の幸せが得られるまで私の願いは尽きることがない」という意味で、お大師さまの誓願であると言われています。

一乗院も、このお言葉に示されるように、すべての人に本当の幸せが訪れるまで尽きることのない存在でありますよう檀信徒の皆様とともに護持していきたいと思います。
ご参詣の際には是非ご覧下さいませ。

 島原市の中心部、中堀町のアーケードの一角に、ひっそりと一本の宝篋印塔が建っている。これは、『深溝世紀』(巻十七)靖公の寛政五年(一七九三)三月十八日に島

一乗院建寶篋塔於堀街、弔流亡者

と記されている宝篋印塔である。寛政五年(一七九三)といえば、寛政四年(一七九二)の島原大変の翌年である。この塔の建っている場所は、当時は島原内港の船着き場で、城下随一の繁華街であり、寛政四年(一七九二)の島原大変の際に津波の直撃を受けた為、最も多くの被害者が出た。
 一乗院七世弘輝宥勝は、この地に「溺死供養塔」の建設を藩に願い出て許可を得、早速城下の有力者、財力者宅を訪れて建設費の勧進を試み、別当、乙名、御用商人たちの協賛を得て、寛政五年(一七九三)に完成したのがこの塔である。
 宝篋印塔は仏の舎利を奉蔵するため「宝篋印陀羅尼経」を納めた供養塔であるので、中堀町の塔は「陀羅尼経」を納めた形跡がなく、溺死者の戒名・俗名を刻んだ供養塔であるから、正確には「宝篋印塔型供養塔」と呼ぶのが適切である。
 実際、上下二段の基盤に溺死者九十六名の戒名・俗名が刻まれ、背面下段基盤の末尾に「温泉山一乗院現住弘輝法印造建之」の文字がはっきり見て取れる。
 尚、『深溝世紀』によると、一乗院は、島原大変の直後にも、城主の命を受けて、覚王院という小浜の山伏と共に、温泉山(雲仙)の噴火鎮静の祈願を行っている。
 数百年の時を経て、島原市の繁華街に今なお残るこの供養塔は、当時の悲惨な状況と、一乗院先師の浄行を静かに物語っている。

 江戸中期の温泉山一乗院の活動は、主に島原藩の祈願所としての役割が大きい。『深溝世紀』によると、当時の一乗院が、藩主の病気平癒、火山活動の鎮静、雨ごい等、島原藩のために多くの祈願を行っていたことが確認できる。当時の一乗院の樣子を知る上で注目しなくてはならない『温泉山起立書』という文献がある。
 これは、安永七年(一七七八)島原藩に提出された一乗院の書上帳(写)で、この史料によって当時の温泉山一乗院のほぼ全容を知ることができた。
 『温泉山起立書』にはまず、四面大明神(現温 これは、安永七年(一七七八)島原藩に提出された一乗院の書上帳(写)で、この史料によって当時の温泉山一乗院のほぼ全容を知ることができた。
 『温泉山起立書』にはまず、四面大明神(現温泉神社)の外観、次いで普賢岳にある普賢神社の外観、次に妙見岳にある妙見神社の外観が説明されており、その最後に、

右四面普賢妙見三ヶ所共ニ殿様より御建立所ニ而先規より御普請修覆共ニ被仰付候事ニ御座候
右三ヶ所共ニ一乗院支配

と述べられ、江戸時代は温泉神社、普賢神社、妙見神社は一乗院の管轄下にあったことがわかる。
 その次に温泉山一乗院の詳しい内容がのべられ、前述した、山号(温泉山)、寺号(満明寺)の由来、及び、境内の建造物の説明がなされている。
 本堂は四間半七間半の萱葺、本尊大日如来、聖天堂、観音堂、五智如来堂、鐘樓堂、釈迦堂等があり、その他にも多数の石塔があったようである。塔頭であったと思われる慈心院跡も見受けられる。また、現存する當院先住墓所も記載されており、当時の状景が偲ばれる。
 また、北有馬坂上名と今福名にそれぞれ薬師堂があり、どちらも一乗院の管轄下であった。
 それから、四月八日の仏生日と九月九日の四面宮祭に藩の役人たちが参詣し、多くの商人が小屋をかけ、商売が行われたことも記載され、この店小屋を開くには一乗院宛の別当、町役人、庄屋等の手形が必要であった。歓喜庵は現在の一乗院で、金藏庵は南串山町上木場の八幡神社である。金藏庵は明治初年に神官となったが、これについては後述する。
 『温泉山起立書』は最後に「古町」に大悲庵があり、たびたび火災に遭い、正徳、享保年間に再建され、年号の頭を取って正享庵と呼ばれたことが述べられている。この古町とは島原であろうか。
 これらの事項が記載されている『温泉山起立書』によって、江戸時代の一乗院が多くの塔頭や諸堂を有し、島原藩及び地域住民の生活の中に溶け込んでいる様がうかがえる。
 旅人が、一乗院、四面宮に参詣する時には、城下で発行される一乗院宛の登り手形が必要で、帰山のおりには津口に宛てた手形が一乗院から発行されたとある。
 また、一乗院に六十六部・廻国修行者が集まり、納経が行われており、山内の地獄も一乗院の支配であったことが述べられている。
 また、島原藩に於ける一乗院の役務の説明もあり、藩主には「武運長久・息災延命」の護摩札や参勤交代の「海陸安全」の御札を献上し、また雨乞、日乞の祈願では家老・郡方奉行・諸役人が三岳(四面宮・普賢神社・妙見神社)に代参することになっていた。さらに一乗院は、島原三十三ヶ村の家々に五穀成就の御札を配り、耕作成就・虫除等の御札も一村に一枚づつ納めている。さらに一乗院は村方寺社頭であった為、年頭における藩主御目見(謁見)で御札を献上している。
 そして、北串山村の山畑名に、かつて一乗院の庵があったことも記載されている。
 それから、一乗院における葬儀は、北目では東方閑村(現有明町)の生松庵(現生松寺)、西目南目より遠方は南串山の歓喜庵(現一乗院)が務めた。そして、京都御室仁和寺の摩尼珠院を兼帯し、色衣の着用が許されていた。
 そして、当時の末庵として、

東方閑村 生松庵
南串山村 歓喜庵
同村社僧 金藏庵

とある。この生松庵(現生松寺)は天保九年(一八三八)に書かれた『諸事覚書』によると「三宝院末」とあるので、京都醍醐寺を本山とした、修験道当山派であったようである。
歓喜庵は現在の一乗院で、金藏庵は南串山町上木場の八幡神社である。金藏庵は明治初年に神官となったが、これについては後述する。
 『温泉山起立書』は最後に「古町」に大悲庵があり、たびたび火災に遭い、正徳、享保年間に再建され、年号の頭を取って正享庵と呼ばれたことが述べられている。この古町とは島原であろうか。
 これらの事項が記載されている『温泉山起立書』によって、江戸時代の一乗院が多くの塔頭や諸堂を有し、島原藩及び地域住民の生活の中に溶け込んでいる様がうかがえる。

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