ichijyoin0805のblog

2011年07月

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集合写真を忘れていたので、番外編です。
裏話。

今年の五年生は「何か手伝いましょうか?」
と積極的に「お手伝い」の出来る子達でした。

また、四年生は指示をすれば、「はい!」
と言い、すぐ行動できました。

毎年問題の三年生、でも、修行妨害することもなく、守らなければならない事はきちんと守ることができました。

兄弟が参加していることを条件に、特別参加枠で頑張った二年生。 。。。よく頑張りました。

毎年、就寝時間が決まっていますが、これだけは守らないのが小学生。
暗い廊下を走り回るのが小学生。

でも、男子は初めて11時には全員就寝し、朝も子供の足音で起こされることもありませんでした。

夜食として、4升炊いたお米の中から「おにぎり」を作ります。
三年生の女の子が「おにぎりは、誰がにぎったのですか?とても美味しかったので、お礼が言いたいのです」
と。おにぎり担当の住職夫人(義母)は、お礼を言われ、照れてました(^_^)

何はともあれ、けが人、病人がなかったのは何よりです。

あ~、無事済んで良かった~(本音)                 テラのヨメ

今年もやってまいりました一日修行。

7月26日~27日にかけて、南串山第二小学校の2年生から5年生、22名が一日修行体験を行いました。

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最近の子供達は、キャンプなどで、集団生活を体験する機会はあるようですので、お寺でしか出来ないことにスポットを当てて毎年開催しております。

早いもので、今年で10年になりました。・・・っていゆうか、テラのヨメが嫁いだ年に始まったのだから、もう10年か・・・・。あんまり、寺の嫁らしくないと今でも思います。(料理下手だし)

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もちろん「礼拝」もきちんとした作法ほ副住職より教えてもらい、誰一人反抗することなく、本像様に「礼拝」を21回行いました。「しんどかった~」という言葉も聞こえてきまいした。


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↑こちらの小学生の兄弟、兄ちゃんは五年生、弟も二年生で特別参加でした。でも、二年生でも「般若心経」をきちんと書き終えることができました。拡大コピーで一乗院バージョンとして特別に作っていますが、大人でも「漢字」は難しく、集中力も必要とします。                  

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護摩供養にも毎回参加してもらいます。途中気分が悪くなる子もいましたが、頑張りました。真夏なのによく堪えています。お願い事はさまざまですが、必ず一本は家内安全を選んでもらいます。家庭が円満であってこそ、幸せな生活が送れます。                           

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今年も、佐賀より福満寺副住職様をヘルプに頼みました(>_<)  「いいですよ」の一言で丸二日を一乗院のために空けていただき、誠にありがとうございます。   また、子供22人、真夏の宿泊なので、お風呂は小浜温泉の公衆浴場に行きます。↑の方々が、ブログ初登場のボランティアの方々です。「毎年ご協力ありがとうございます!                              

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お寺で過ごした体験が、子供達の心の中に残って、将来的に過疎化が進む田舎の家を守り、先祖を大事にしてくれることを少しだけ期待しております。

元気な子供達が、大人になっても田舎に残って生活が出来るような世の中になって欲しいものです。
田舎は良い所よ~!!(コンビニ遠いけど)

                            テラのヨメ

昨日、加津佐町西越崎地区より本年度の石垣清掃のために、早朝五時半より四人の檀家さんがお寺に来てくれました。

四人中三人は「お孫さん」のいる正真正銘の「おじいちゃん」ですが、とにかくびっくり(◎-◎;)するぐらい仕事が早い!!!!

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今時の若い者なんて、全く足下にもおよばないぐらいです。
また七月下旬で暑くもあり、おそらく一般人ならば

「熱中症かも~」

なんてばてるところですが、普段から農家の方たちなので、暑い中での仕事は問題ない!!と言い切られるぐらい男の中の男です。ホント、今時の若い方に、この西越崎地区の働く男の姿を見てもらいたいです。

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おかげで一年伸ばし放題だった一乗院の石垣もきれいさっぱりになりました。
最後にトラブルがあり、とても気の毒でしたが、毎年このように清掃に来ていただき、感謝感謝の一言です(^_^)     

                               テラのヨメ

河童の手

 当山位牌堂前の棚に当山に古くから伝わる河童の手がある。これは、伝説の僧、赤峰法印が退治した河童の手であるといわれるものである。昭和9年、雲仙が国立公園に指定された際、雲仙山内に於いて開催された国際産業観光博覧会にも、一乗院から出品した宝物目録の19番目にその記載があり、このことからも、当時から寺の宝物として大切に保管されていたことが伺える。

当山に伝わる伝説によると、


 雲仙は、その昔、温泉(うんぜん)と書かれておったそうな。
今は雲仙に統一されたが、温泉(うんぜん)岳・温泉(うんぜん)神社などに、温泉の表記が残っておる。この温泉の山をお開きになったのは、行基という有名なお坊さんで、大宝元年(七〇一)に温泉山満明寺を建てたのが、始まりということじゃ。満明寺は瀬戸石原に三百坊、別所に七百坊の僧坊を有する大寺であったそうじゃが、島原の乱で仏教諸寺院はみんな、焼かれてしもうた。

島原の乱のあと、島原のお殿様の高力忠房が、満明寺を復興し、温泉山満明寺一乗院としたのじゃ。この一乗院の第八世に、赤峰法印という偉いお坊さんが住んでいたそうな。

お山の中腹あたりにあるいまの「諏訪の池」には、そのころ悪いカッパの太将がおったと。なんでも、このカッパの大将、手下どもを集めて湯の町にあらわれ、女や子供にいたずらをしたり、麓の小浜まで下りて行って網を破ったり、悪いことばかりしておったのじゃ。

「これは困ったことじゃ。何とかしてカッパの太将をこらしめねばならぬ」こう思った赤峰法印はカッパの太将に戦いをいどむことになったのじゃ。さて、カッパの神通力と赤峰法印の仏力(仏さまの力)の二つがぶつかり、どちらも死力をつくして争うたそうな。

ところが、三日三晩たっても、どうしても勝負がつかなんだ。たまりかねた赤峰法印は、考えたあげく、負けたふりをして、お山の方へ逃げたのじゃ。勝ったと思うたカッパの大将は、その勢いにのって赤峰法印をどんどん追いかけたそうな。

そして、とうとう地獄道にさしかかったときのことじゃ。もうもうと湧きのぼる地獄の煙と熱気でカッパの頭の皿の水が蒸発してしもうた。さあ大変。大切な皿の水がなくなったカッパの大将は神通力を失って、そのままパッタリと道に倒れてしもうたのじゃ。

「カッパの手」は、その時赤峰法印が退治したカッパの手だけを、もぎとって残しておいたものだそうな。



とあり、その時の状況がよくわかる。これは、長崎の昔話 第二集に掲載されていたものを、こちらで加筆させていただいたものである。

その加筆の内容は、前述の赤峰法印とは、今まで謎の人物であったが、この度、調査の結果、文化九年(一八一二)に亡くなった当山八世摩尼珠院兼帯法印禅宥宥興大和尚が小浜町山畑赤峰(あかみね)生まれであることがわかり、おそらくこの人物が赤峰法印であると考え、上記の伝説に「一乗院の第八世」を付け加えている。
 この河童の手が何であれ、約二百年もの間、当山に「河童の手」として伝えられている歴史の重さ、人の思いを大切にしていきたい。

昨日、一昨日と、吉原詠監先生のご自坊近くの会場にて、高野山宗教舞踊の講習会がありました。
私も地唄をお唱えすべく、行ってまいりました。今回は四国は徳島の鈴江大師範先生を講師にお迎えしての講習会で、曲目は「高野山参拝和讃」でした。

実は私、地唄で呼ばれたにも関わらず、「高野山参拝和讃」は習ったことがなく、一応予習は致しましたが人前でお唱えするのは初めてでしたので、最初は吉原先生にご指導いただきながらの講習で、個人的にもためになりました。

舞踊は全くの素人で、詳しいことは分かりません。しかしながら、ここ数年、舞踊を観させていただく機会が増えましたので、大師範の先生をはじめ、熱心に練習されている受講者の皆様の情熱はひしひしと伝わって参りました。

上手く言えませんが、一つ一つの動きの中に、意味があり、こだわりがあり、それが御詠歌とのコラボレーションによって、表現できる状景があり、それを目指して精進されている皆様の姿には感銘を受けました。

鈴江大師範先生は、「最近写真があるので舞踊のワンシーンを切り取って人に観られることがありますが、どこを写真に撮られても、美しく見えるように舞うのが理想型です。」と仰いました。

これは御詠歌にも言えることで、さらには日々の生活にも生かしていければと思います。自分に置き換えてみますと、御詠歌にしましても、そこまでの気持ちで実際やっているだろうかと考えますと、怪しいものです。

改めて思うのですが、御詠歌より舞踊は難しいのではないかと思います。なぜなら御詠歌は、秘曲とかでは無い限り、譜面を見て楽器を奏でればある程度は理解出来ます。しかし、私は舞踊の教典を見たことがないので分かりませんが、舞踊はその動きの一つ一つが大変細かく、手だけでも、位置、角度、方向等、みんなで揃えるには大変な修練が必要のようです。

そんな熱心な皆様が気持ちよく舞うことができるような御詠歌をお唱えしたいと思いますが、なかなか上手くいかないものですね。

吉原詠監先生の奥様、吉原昌子大師範先生が、「踊っていて、御詠歌のお唱えと通じ合っていると思える時が希にある。」と仰っていましたが、いつの日か、そんな御詠歌をお唱えしたいものです。

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