ichijyoin0805のblog

2012年01月

こんにちは、テラのヨメです。
長崎もすっかり寒くなりました。今年は暖冬。。。なんて油断していたら、やっぱり冬はやってきました。

ブログでもご説明した通り、平成24年1月1日より、一乗院第二十世として泰仁住職の誕生となりました。
必然的に、私も「住職夫人」という肩書きが出来ましたが、所詮、嫁は嫁。
今までと何一つ変わらず生活しております。「テラのヨメ」というふざけたあだ名を付けていますが、身分も全く変わらないので、このままでブログを更新しようと思います。
今、小2の長男にお嫁さんが来たら「テラのシュウトメ」に変更できるんだろうけど…

さてさて、ふざけた話題は置いといて、

1月21日初大師に併せ、初護摩も行いました。
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沢山の檀信徒の方がお詣りに来て下さり、ありがとうございます。
テラのヨメも厄年、飛躍の年でありますよ~に、とお不動様にお願いしております。
土曜日ということもあり、小学生の参加もありました。おばあちゃんに連れられて、きちんと正座をし、お詣りすることが出来ましました。感心感心♪

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護摩たきのあとは、精進うどんの御接待です。シンプルですが、みんなで食べればご馳走です(^_^)

よく住職夫人の肩書きをもらったので、「坊守の仕事を引き継いだのね」と言われます。
テラのヨメ、嫁いで十年目になりますが、未だに「坊守の仕事」が良くわかってません。
勉強不足です(@_@;)

ただ、寺の嫁というものは、準備に追われ、後片付けに終わる、ただそれの繰り返しと思っています。
何事にも対応しなければ、当日の法要もスムーズにいきません。基本的に裏方専門です。
でも、一乗院の仏様に導かれ、ここにこうして居るのだから、頑張って一乗院の為に尽くしていきたいと思います。

ということで、
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住職は法務のため忙しいらしく、テラのヨメが今回も護摩堂の後片付けをするのでした・・・

初護摩が終われば星まつり☆、準備、準備で頑張りましょう♪

                          テラのヨメ












昨日は北海道の嫁の実家から雪だるまが送られてきました。

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北海道の雪を発泡スチロールの容器にそのまま詰めて、宅急便で送られてきます。この時期になると、もうかれこれ7年ぐらい、毎年送って頂いております。雪がほとんど降らない長崎の子供達にとって、雪だるまは興味津々です。

昨日は、送られてきてすぐに、次男と三男が通っている保育園に持って行きました。保育園の子供達も大喜び!

保育園にいって、あんなに子供達からお礼を言われたのは初めてでした(^^)

今日の夕方子供を迎えに行ったら、保育園の先生から、「せっかくですからご自宅でも楽しまれては」との心遣いに再度自宅に連れてきました。

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保育園の子供達のお相手をした結果、雪だるまは少し小さくなってました。雪だるまくんも、保育園の子供達に北海道の雪を体験させてくれてご苦労さまでした!

明日の朝は長崎も冷え込むとのことなので、明日いっぱいぐらいは形を留めていてくれるかも?

明日は、うちの子供専属の雪だるまとしてその責務を全うしてくれることと思います!

新年あけましておめでとうございます。
今年もどうぞよろしくお願い申し上げます。昨年三月の総代総会での決議を受けまして、平成二十四年、今年の1月1日より、私、西泰仁が温泉山一乗院の第二十世住職を務めさせていただく運びと成りました。
師であり父であります第十九世仁海和尚は名誉住職として、今まで同様皆様とのお付き合いをさせていただきます。
思えば一乗院は、私が誕生致しました昭和四十五年から今日まで、その長きに亘る歴史の中でも激動の時代でありました。
昭和四十九年 参道改修
昭和五十一年 奥の寺 延命寺合併
昭和五十五年 雲仙釈迦堂独立 満明寺と成る
昭和五十六年 庫裡改築
昭和六十年  本堂再建

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といった歴史の流れを、成長の過程で感じて参りました。
昭和六十一年、本堂再建を見届けて安心したのか祖父十八世宥興和尚が遷化し、それから平成八年、私が学問と修行を終えて帰山致しますまで父仁海和尚は、一人でこの一乗院を支えてくれました。
私が帰山してからの今日までの日々は、父の姿を手本に檀家さんとのお付き合いを学ぶ日々でした。そして、先日父が本山財務部長として不在であった四年間は、僧侶一人でお寺を護持していく難しさを知りました。
父十九世仁海和尚は、昨年十二月、本山より住職勤続二十五年表彰を受け、今年の一月、私泰仁にその法灯を継承して晴れて名誉住職と成りました。
幸い先代もまだまだ元気でございますので、お寺の檀務という点に於いては今までと全く変わらないと思いますが、一般の会社に例えるなら、社長が会長に、常務が社長になるようなものと、ご理解をいただければと思います。

私が帰山してから間もなく一乗院は開山千三百年記念を迎え、私も副住職として、その事業に携わることが出来ました。その際に、一乗院の今日までの歴史を調べる機会を得て、その歴史の重さを再確認致しました。

私は、一乗院第二十世とのことですが、一乗院は残念なことに一度、キリシタンの手によって壊滅させられており、島原の乱以前の歴史がほとんど消失しております。それ以前の住職のことも、ほとんど分からなくなっていて、実際には、私は五十何代か六十何代目の住職なのでしょうが、島原の乱の後、寛永十七年(一六四〇年)、島原城主に任ぜられた遠州浜松城主高力摂津守忠房公より招聘された当山中興弘宥法印(遠州浜松鴨江寺出)より数えて二十代目ということになる訳です。
現在、島原半島は、段々と過疎化が進み、それに伴い一乗院もまた檀家さんの流出に歯止めがかからず、先行きの不安を抱えております。右肩上がりの経済成長も今やバブルの崩壊と共に崩れ去り、不況の二文字が世の中を包み込んでおります。

幸い、一乗院は、先代、先々代の時代に檀信徒の皆様のご協力の下、本堂・庫裡の再建を果たしておりますので、建築物に関しては、早急に取り組むべき課題が無いのは非常に有り難いことです。
しかしながら、人々の宗教離れは加速する一方で、私が帰山した時に活動していた各地区の大師講は、現在、西越崎地区のみとなり、御詠歌講に関しましても、先代仁海和尚の晋山式の際には六十名を越える御詠歌隊の皆さんが、田ノ平の公民館から御詠歌をお唱えし、行列に参加して下さったのが、今やその数は三分の一にまで減ってしまいました。

私に課せられた課題の一つに伝統の継承があります。物質的には本堂や庫裡といった建造物等の護持は言うまでもありませんが、今伝えておかなければならない伝統、特に御詠歌等の、人から人に伝承されていくものは、一度その流れが途切れてしまうとその復興は困難を極めます。年四回の法要(春・秋の彼岸、施餓鬼、御影供)の台所方の伝承も、今後は難しくなっていくことでしょう。
幸い、まだ少なくなったとは言え御詠歌をお唱え出来る方もいらっしゃいますし、私自身も御詠歌教師の資格も取得し九州詠歌青年会の一員として活動致しております。また、法要のお手伝いも、今ならまだ慣れた方がいらして、初めての方にご指導いただいているのが見受けられます。
金剛流御詠歌の流祖、曽我部俊雄大和尚は「面授を最勝をとなすこと写瓶の実義也」と言われました。つまり、直接人から人に伝わっていくことが、もっとも大事なことだと仰っております。

私は、その教えのもと、一乗院に脈々と伝わる良き伝統を、少しでも良い形で後世に継承していくことが、私一乗院二十世に課せられた使命と信じております。
子供の頃、走るのが速かった父と、運動会の親子リレーを走るのが夢でした。その夢は叶いませんでしたが、お寺の住職としてのバトンを父より直接手渡していただきました。非常に重要な重たいバトンでございます。そして、私は、このリレーがまだまだ未来まで続いていくよう、そして次の走者、一乗院第二十一世に綺麗なバトンパスが出来るよう、日々精進を重ねていく所存でございます。
私は只今四十一才の若輩者でございますが、名誉住職を始め、寺族並びに役員・檀信徒の皆様、そして地域の皆様のお力添えをいただき、何とかこの重責を全う出来るよう努めて参りますので、ご指導ご鞭撻の程よろしくお願い申し上げます。  合掌

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