一乘院の檀家である荒木健夫さんより、

先代に宛てられた手紙、
そして、古いモノクロの写真を数枚預かりました。

その古い写真に写る青年は、
荒木さんのお父さんの叔父にあたる方で、
もちろん一乘院に残る過去帳にも記されています。

彼の名は、荒木武友。
享年27歳。
亡くなった日付は昭和21年11月20日。
戦後の事です。

しかし、実際に彼の葬儀を行い戒名を授けたのは、
死後7年が経過した
昭和28年頃のことでした。





イメージ 1
【写真提供 荒木健夫氏】









武友は大正9年、
長崎県南高来郡(現南島原市)加津佐町路木地区の
荒木家の三男として生まれました。

昭和16年21歳で、佐世保相浦海兵団に入団、
同じ年の12月、大東亜戦が始まります。
彼はそのまま南方の各地域の戦闘に参加。
昭和20年8月、日本は終戦を迎えますが、
武友は故郷に戻る事はありませんでした。

彼は戦地で亡くなったとの報告も無く、
全く消息不明の状態でありました。

家族は来る日も来る日も
武友が帰ってくるのを待っていたことだと思います。

しかし大東亜戦が終結し、8年経った昭和28年、
武友の生家に
小さな木の箱が届けられました。

中に入っていたのは砂。

その砂は、
武友が戦死した場所にあったものと家族に伝えられました。

即ち、此の世に武友は既に亡き者と
なっていた証拠でもありました。

そして彼が亡くなった場所、それは

インドネシア「最後の楽園・バリ島」でした。



「最後の楽園」と称されるインドネシア共和国バリ島。
この名称はオランダの人達が付けました。
バリ島には日本から直行便で七時間半ほどで
デンパサールにあるングラ・ライ国際空港に到着します。

インドネシアではイスラム教徒が大半を占める中、
バリ島では多神教であるヒンドゥー教と土着の信仰が融合し、
バリ・ヒンドゥー教として
島民の人口九割以上の人が信仰しています。
独自の進化を遂げたバリ・ヒンドゥー教という宗教が
島民の心の支えとなり、
「神々の島」
とも形容されるほど信仰心が篤い土地柄であります。

バリ島の玄関口、「ングラ・ライ国際空港」は
バリ島の英雄・ングラライの名前からつけられ、
彼はバリ島独立戦争のシンボル的な存在でもあります。

今では世界的にも人気観光地のバリ島。
しかし68年前、この癒やしの島・バリ島は、
インドネシア独立軍とオランダ軍との
熾烈な戦いの場でもありました。

17世紀以降欧米各地の強国は、
アフリカ、インド、東南アジアなどを武力で攻め入り、
自国の植民地として原住民を支配下に治めていきます。
インドネシアもオランダの占領下となり、
植民地支配が350年続きました。
しかし「欧米諸国の植民地支配からの解放」として
日本は大東亜戦に突入、
昭和17年日本軍のインドネシア侵攻により
オランダ軍は全面降伏、
インドネシアは日本軍の統治下におかれます。

当初はインドネシアの油田目的でしたが、
オランダ植民地時代とは真反対の政策を行い、
インドネシア国旗掲揚、国歌斉唱、
民族運動指導者の釈放、
教育の推進など、
日本軍の占領下政策によって、
インドネシア人は「民族の誇り」を取り戻しつつありました。

日本は昭和20年8月19日、
インドネシアの独立を容認するということまで決定しました。

しかし、
昭和20年3月、アメリカ軍との沖縄本土による戦闘、
8月には広島、長崎に原子爆弾が投下され、
8月15日、日本はオランダを含む連合軍に降伏し、
事態は急変します。

後の初代大統領となるスカルノ等は、
独立を認めるはずだった日本の敗戦を受け、
念願の独立が反故になることを恐れ、
日本軍の前田精海軍少将等の協力を受け、
急きょ同年8月17日、インドネシア独立を宣言しました。

しかし、オランダはこの独立宣言と
スカルノの大統領就任を無効とし、
再びインドネシアを植民地とするべく侵攻を開始しました。
そして、約四年にも及ぶインドネシアの独立戦争が始まりました。

そのような状況下、
バリ島でも独立を目指す人々が立ち上がり、
その中に十数名の旧日本兵の姿がありました。

そのうちの一人が、荒木武友でした。

インドネシア独立戦争には、
約2000人もの旧日本兵が参加し
半数以上の兵士が故郷にも帰ること無く、
異国の地で命を落としたとされています。

日本で生まれ育った彼らは、
自らの意志で
その異国の地に留まり、
再び戦争の道へと進んだのでした。


武友は大東亜戦争中、
海軍南方派遣艦隊第二十一根拠地隊・第三警備隊の一員として
インドネシア・セレベス島に侵攻し、
同島からバリ島の陸上防衛、警備の任務にあたっていました。
しかし、昭和20年、日本軍の敗退により、
同じ九州出身の盟友・松井久年と共に、
オランダ軍の捕虜となりました。

オランダ軍の捕虜となった日本人の扱いは、
その当時、人間以下だったと言われるほど、
劣悪な環境だったと言われております。
    
そして二人は捕虜施設から脱走。

逃げ出した彼らには行き場はありませんでした。

途中、プナルンガン村にてインドネシア独立軍に見つかり、
軍幹部の所に二人は連れて行かれました。
彼らは独立軍に命乞いをするでも無く、
武友と松井は「一緒に戦いたい」と申し出、
それを受け入れられます。

しかしながら
インドネシア独立軍と言っても、
武器も無く戦略も無く、
オランダという大国と戦う術を知らない状態でした。

インドネシア独立軍としても、
オランダ軍と戦うための知恵と
日本軍の武器が欲しかったのです。


日本の為に戦い、
そしてインドネシアの為に戦う。
新たな戦場に彼らは足を踏み入れました。

バリ島のングラライが率いる
インドネシア独立軍に加わった日本人兵の中には、
武友のように名前も出自もわかっている者もいれば、
姓名不詳、所属部隊不詳という者もいました。

それぞれ事情があり、
そして彼らは故郷を捨て、
この南の小さな島で
命を賭けて生きようとしたのです。

武友と松井は夜襲、奇襲、武器の使い方など、
独立軍に戦い方の基本を指導し、
更に同じ独立軍の一員として戦闘に参加します。

戦闘の達人・荒木、
射撃の名人・松井、
名コンビの活躍により、
オランダ軍への奇襲攻撃は次々と成功します。

インドネシアに残留した旧日本兵のほとんどは、
現地の名前をつけていました。
それは、
オランダ軍に日本兵とばれるのを恐れた為だとか、
色々な説があります。

武友もイ・マデ・スクリと名乗っていましたが、
プナルンガン村の人達は、
武友を「ハラキ(荒木)さん」、
松井を「ミツイ(松井)さん」と
親しみを込めて呼んでいました。

しかし圧倒的な戦力、
そして何より近代的な武器を持つオランダ軍により、
独立軍は追い詰められていきます。


昭和21年11月20日、
武友はングラライと共に
マルガの地で行われた激戦の中、
命を落とします。

玉砕でした。



武友のご遺族から預かった手紙の中に、
第三警備隊水警科長の月森章三大尉が書かれたものがありました

そこには
武友の最後の姿が書かれていました。

バリ島独立軍と共に戦い、
異国の地バリ島にて、
ただ一人生き残った日本兵・平良定三氏の言葉です。


「平良氏によれば、インドネシア武勇軍・オランダ軍共に全力を傾注した戦斗(戦闘)でオランダ軍のガス弾、焼夷弾空撃の間をぬって近接し、最後は両軍の肉弾戦の内に戦斗(戦闘)は終結しましたが、武友氏は弾丸の尽きた日本十銃(機関銃)を捨てて、オランダ軍より奪った自動十銃(機関銃)を小脇に抱えた、壮烈な戦死であった由」


と書かれていました。

決して敵に背を向けることなく、
果敢に敵に挑み、
そして散っていった一人の青年の姿がそこにありました。



約4年間続いた独立戦争は、
昭和24年12月、
国連の斡旋で行われたハーグ円卓会議により終結し、
正式にインドネシア連邦共和国として独立を承認されます。
この独立戦争では約80万人の尊い命が犧牲となりました。

バリ島には
インドネシア独立戦争にて戦死した1372名の兵士を埋葬した、
マルガ英雄墓地があります。

ちょうど日本の靖国神社のように、
国の為に命をかけて戦い
命を落とした兵士の墓です。

そして靖国と同じように
宗教・性別・人種を問わず埋葬され、
戦闘で亡くなった旧日本人兵士も、
お祀りされています。

そこに荒木武友氏の名前も残されていました。

彼らの軌跡を辿るために、
彼らの功績を称える為に、
人々は国を守った英雄達を祀ります。

「ハラキ(荒木)さん、ミツイ(松井)さんのお二人は
独立の恩人です」

その当時の彼らを思い出し、バリの人達は言います。


そして命をかけて平和の礎を築いた恩人の事を忘れない為に、
プナルンガン村の人々の寄付により
松井・荒木慰霊碑を建立され
平成17年11月20日、除幕式が行われました。
慰霊碑の両脇には、
二体の兵士の像があります。
おそらく、武友、松井を表したと思われる像は、
真っ直ぐに前を向き、敬礼をした若い兵士の姿です。

たとえあの戦いから70年近く経とうが、
村の人々は恩人の事を忘れること無く、
常に御供え物を欠かさず、
そして彼らに向かって手を合わせます。

ありがとう、ありがとう」と。

手を合わせて感謝をする。

この国を守った人達に。



偶然の巡り合わせでバリ島で眠る一乘院の檀家さんに、
菩提寺住職が直接お参りする機会が出来ました。

イメージ 3


本当に偶然なのか、
あと二年後にはあの戦いから70年という節目を迎える今、
このように手を合わせる機会が出来たのは、
必然としか思えません。
これも何かの仏縁としか思えない巡り合わせでした。










また、
預かった写真の中に、
一枚の当時のバリ島の島民と写った写真がありました。

イメージ 2
        【写真提供 荒木健夫氏】


武友氏、他三名の日本兵、
そして、
笑顔でカメラに眼を向ける現地の人々。
武友が守った人達が、ここには写っていました。

戦争反対と口にするのは簡単です。


でも、戦わなければ

人間としての自由が、
民族としての誇りが、
国の平和が、

手に入らなかった人達がいたのです。

そして彼らは、


自由の為に戦った人達の事を、
平和の為に犧牲になった命を、
今でも忘れることはありません。






イメージ 4





資料提供・荒木健夫氏

参考資料
『長崎新聞』昭和40年1月16日付け記事
『サムライ、バリに殉ず』 坂野徳隆著 講談社
『東部ジャワの日本人部隊』 林英一著 作品社
『残留日本兵』 林英一著 中公新書
『皇軍兵士とインドネシア独立戦争』 林英一著 吉川弘文館
『帰還しなかった日本兵』 加藤均著  文理閣
『脱走日本兵』 奥源造著 毎日新聞社
『インドネシア独立戦争に参加した「帰らなかった日本兵」、一千名の声』
  福祉友の会発行





                      テラのヨメ