今日は雲仙にあります一乘院歴代住職墓地の掃除に行ってきました。

一乘院は明治政府の出した神佛分離令によって大宝元年(701)の開山以降ともにあった温泉神社と分離され、廃仏毀釈によって温泉(現在の雲仙)にあった本坊が破壊されたため、明治2年(1869)に現在の南串山の地に本坊を移転しました。

寛永17年(1640)に遠州浜松鴨江寺より招聘された弘宥和尚によって中興されてから明治2年までは雲仙に歴代住職の墓はあります。更には明治13年(1880)に旧本坊跡地に復興された釈迦堂が昭和55年に独立し、現在の雲仙山満明寺になるまでの期間、十四世から十七世に至るまでの住職は、南串に移った本坊で住職を引退した後は、雲仙釈迦堂に隠居した経緯があることから、十七世淳海和尚までは雲仙に墓があるのです。

現在私は一乘院二十世を拝命致しておりますが、前述の中興弘宥和尚から数えて二十代目ということで、大宝元年(701)より寛永17年(1640)までの住職が全く分かりません。

下記に一乘院に伝わる縁起書の一部を抜粋しました。

温泉山縁起 追加
當世界の南に国有り。南蛮と号す。彼の国より鬼利支丹外道、日域に渡り、外道の法を弘む。金銀を以て万民に与え、魔法を勧む。

耽慾の輩、彼の法に歸依し、吾が朝の佛神、堂塔を破壊す。

此の時に至って、悉尽、當山の佛像、経巻を地中に埋め、或いは他山に移して空地と成る。六十余歳、吾朝の将軍、松平家康公、天下を治めたまいしより以来、鬼利支丹の法を制し、伴天連の輩を彼の国に追い帰し、跡を削り、名を埋づむ。しかりと雖も、薫残り尚を遺恨を挟む。高来天草の二島の土民等、一揆せしめ、原城に楯籠もり、蟷螂の斧を取ると雖も、龍車襲来して責め亡ぼす。高力摂津守忠房入部の守護を賜り、武勇・信心世に勝れ、佛神二道を崇め、當山の旧跡の絶えたるを悲しみ、仮に四面の社を建つ。土中より五佛像を掘り出す。其の長三寸余、則ち本尊と崇め奉り、社務を

一乗院の弘宥法印に賜り。二年治め遷化す。

資の宥誉法印を以て、爰に太守忠房殿、島中の人民が信心を発させしめんがために、五智の尊像を造立せんと欲したまい、宥誉、命を受け、寛永十九年(1642)壬午五月、摂州大阪に上洛し、造立成就す。

同じ年九月、本郡温泉に帰り来り、登山し、入佛す。

同二十年(1643)癸未九月、本社拝殿、造営成就す。

同月二十九日、遷宮(宮を移す)供養畢る。

忠房公、拝殿一乗院に永く百石を賜う事。

右は、本社の艮の角に造営、地曳す。御正体、金佛一百一十三体掘り出すること、何の時節にこれを埋めるのかを知らず。久しく土中に在りて朽ち損ず。正体、恙なきを以て内陣の左右に崇め奉るものなり。

万治三年(1660)庚子年、當山中興二世 宥誉法印
八月吉祥日

とあり、キリシタンによって寺院が破壊されたことが記されている。

永禄六年(1563)来日し近畿・九州各地でキリスト教を布教したポルトガルのイエズス会士フロイスは、その著作『日本史』に於いて
 
この高来の地は‥‥‥高く山が聳えている。その山には、いくつかの凹みがあって、そこから絶えず激しい勢いで種々の硫黄が噴出している。この硫黄泉に近く、かの山の上には大いなる僧院があるが、そこには実に大勢の仏僧がおり、また(同僧院は)その肥前国全体で(他に比べて)はなはだ多額の収入を有している。ここは日本における最大、かつもっとも一般的な霊場の一つで、不断に巡礼が訪れている。これらの寺院は温泉(うんぜん)という偶像に奉献されており、そのようなことから、この高来の地は日本でなおいっそうの名声と評判を有することになったのである。〔『日本史』第一部一〇八章〕
 
と述べており、当時の温泉山満明寺の繁栄を示している。近世には、瀬戸石原に三百坊、別所に七百坊を有していたという伝承が定着しているが、実際それに近い壮大な寺観を有していたと思われる。
 しかしながら、時の日野江城主、有馬晴信がキリスト教に入信し、天正八年(1580)領内の寺社破壊が決行され、温泉山一山は破壊されている。前述の『日本史』には、
 
巡察師が滞在した三ヶ月間に、大小合わせて四十を超える神仏がことごとく破壊された。それらの中には、日本(中)で著名な、きわめて美しい幾つかの寺院が含まれていた。〔『日本史』第二部二〇章〕
 
温泉(うんぜん)と呼ばれ、日本では盛んな巡礼をもって知られる豪華な神殿‥‥‥その神殿は有馬の城の上、三里の地にあって、そこには大いなる硫黄の鉱山がある。神殿や僧院、および神仏像は、ドン・プロタジオ(有馬晴信)の改宗後に破壊されていた。〔『日本史』第二部五三章〕

 
とフロイスは述べており、当時の無惨な状景がうかがえる。更には薩摩島津氏の家老であった土井覚兼は『土井覚兼日記』に
 
當郡南蛮宗にて温泉坊中無残破壊候〔天正十二年(一五八四)四月八日条〕
 
と述べ、更には
 
言語道断、殊勝之霊地不申及候、悉荒廃之躰無是非候、四面大菩薩漸礎計残候〔天正十二年(一五八四)五月一日条〕
 

述べており、『日本史』の記事を裏付けている。その後、豊臣秀吉、徳川幕府はキリスト教が広まることによって国が乱れるのを警戒し、禁教令を出してキリスト教徒を取り締まったが、寛永17年(1637)年、島原の乱が起きます。

今年、世界遺産に登録される見通しの、長崎の教会群とキリスト教関連遺産に南島原市の原城跡も含まれておりますが、寛永14年(1637)から翌15年(1638)年の島原の乱の際、確かに原城に立てこもった3万7千人のキリシタンの方々は幕府軍の攻撃によって全滅したでしょうが、その前に、領内の神社仏閣の殆どを壊滅させてから原城に立てこもったわけで、その際、温泉(現在の雲仙)にあった一乘院の前身である温泉山満明寺も完全に破壊されたことが、一乘院に伝わる縁起書によって分かります。

島原の乱の際の島原藩主の松倉勝家は、乱を引き起こした責任から大名としては異例の斬首されました。その後、浜松城主であった高力摂津守忠房公が島原城主として着任されます。

その忠房公が浜松城のすぐ近くにある鴨江寺より、温泉(現在の雲仙)の寺院を復興するために招聘したのが温泉山一乘院中興弘宥和尚です。

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一乘院歴代住職墓地(中央が中興弘宥和尚墓碑、右は二世宥誉和尚墓碑)

弘宥和尚は寛永17年(1640)にやってきて僅か2年で遷化されておりますが、上記写真の墓碑は三十三回忌の際に建立されたものです。

キリシタンによって破棄し尽くされていた寺院の復興は並々ならぬ苦労があったのでしょう。

今日、キリシタンが迫害されたことばかりが報道されますが、キリスト教が無かった日本にキリスト教を広めるために宣教師達は何をしたのか。

大名や民衆を扇動して神社仏閣を破壊させた事実も知っていただきたい。

私はキリシタンに破壊された寺院住職として、その事実を発信していく役割を担っていると思っております。

その歴史も踏まえた上での世界遺産登録であって欲しい。

雲仙の墓掃除に行き、弘宥和尚の墓前に手を合わせるたびに、その思いに駆られ、また、弘宥和尚以前に雲仙におられてキリシタンに殺害されたであろう先師の思いも忘れてはならないと思います。

今日の雲仙は天気も良くて暑かったですが、草刈が終わって先師尊霊に手を合わせ、すがすがしい気持ちで南串に帰りました。