去る7月16日~17日、香川県の小豆島に行ってきました。
高野山大学の同級生であります極楽寺ご住職のお母様の一周忌でした。

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極楽寺さん

島原半島南部で、小豆島に行ってきましたといいますと、ほとんどの場合、羨ましがられます。なぜか?

島原半島では寛永14年(1637)、島原の乱が起こりました。
島原城主 松倉勝家の過酷な年貢の取り立てに耐えかねた領民たちが、キリシタンの天草四郎を総大将として代官所に押し入り代官を殺害。一揆軍は、その勢いで島原城に攻め込み、最終的には旧有馬家の廃城であった原城に立てこもり、激烈な幕府軍との攻防の結果、三万七千人といわれた一揆軍は全滅しました。

この島原の乱で島原半島のほとんどの領民が死んでしまいました。そこで新たに島原城主として着任した高力忠房公が各地から移民を募ったわけですが、その時に小豆島から多くの方が島原半島にやって来られたといわれております。

ということで、島原半島の南側で小豆島と言いますと、ご先祖様の生まれ故郷ということで、小豆島は島原の民の憧れの場所として語られます。

ちなみに、島原の乱の際、キリシタンによって破壊された満明寺一乘院もまた、島原城主高力忠房公より再興された寺院です。

今回お伺いした極楽寺さんは真言宗御室派でもあり一乘院と同じ宗派ですので接点も多いですが、小豆島に高野山真言宗の歓喜寺という寺院があり、歓喜寺さんのご住職とも私、高野山大学の同級生です。

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歓喜寺さん

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歓喜寺さんにもやはり聖天さんが祀られています

我々が通った高野山大学には、当時、学友会(生徒会みたいなもの)・体育会(体育会系クラブを統括する組織)・文化会(文化会系クラブを統括する組織)・学祭実行委員会(学祭を統括する組織)というのがありまして、それぞれに組織の会長、委員長がいて、その4名を中心に、いろいろな学生活動の運営をやっておりました。

我々が高野山大学3回生当時、小豆島の極楽寺さんが学祭実行委員長、同じく小豆島の歓喜寺さんが体育会長、そして島原の私が学友会長、そしてもう一人の文化会長は北海道の友人が務めておりました。

在学中は、それぞれの地元や自坊の歴史のことなど全く知らず、与えられた職務をこなしつつ、それなりに楽しい学生生活を送っておりました。

現在の一乘院は江戸時代までは歓喜庵と呼ばれており、温泉(現在の雲仙)の山にあった一乘院の末寺でした。
明治政府の行った神佛分離令に端を発した廃仏毀釈によって、温泉(現在の雲仙)の本坊を破壊された一乘院は、南串山にある歓喜庵に本坊を移転しました。よって明治2年より歓喜庵が一乘院本坊となりました。

私は、島原の乱の後、多くの方が小豆島より島原半島に移住してこられましたが、その中に、歓喜寺さんの信者さん、もしくは檀家さんがいて、故郷の歓喜寺を懐かしんで歓喜庵を造ったと考えております。

残念ながら、現時点ではそれを証明する確たる資料も見つかっておりませんが、約380年前に起きた島原の乱の後、小豆島と島原の間で結ばれた強いご縁が、時空を越えて弘法大師ご入定の地、高野山でその関係者である我々3人を巡り合わせ、そして、それぞれが住職となり自坊や地元の歴史を知った上で、再び弘法大師八十八箇所霊場で賑わう、島原の民の故郷である小豆島で、再会させてくれたのではないか。

そう考えずにはおられないのです。

今回は極楽寺の御母堂様、そして極楽寺のご住職のご縁によって、小豆島に導かれ、歓喜寺さん、そして長勝寺さん、多聞寺さんとのご縁も深めることが出来ました。

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懐かしい面々。これに北海道の文化会長が加われば・・・

役目を終えて島原までの帰路の最中、恐らくは小豆島から移住してこられた方の子孫である一乘院の檀家さんを、何とかして小豆島に連れて行きたいと考えるに至りました。

2~3年の内に、団体旅行を企画して、小豆島の八十八箇所霊場を巡拝したいと思います。

それが、高野山大学で体育会長だった歓喜寺さんが小豆島八十八箇所霊場の会長に、そして学祭実行委員長だった極楽寺さんが小豆島八十八箇所霊場の副会長になられた今、当時学友会で二人とともに活動をした私の役割ではないかと思います。

この企画が実現した際には多くの方のご参加をお願い申し上げます。合掌