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2016年02月

こんにちは、テラのヨメです。

今年もやってきました、星祭り。
1月1日の元旦を節目として、今年も一年頑張るぞー!

と張り切っていたのに、
やはり三日坊主のテラのヨメ。
1月は失敗が多く、絶不調でした。

おまけに
肩が痛い、膝が痛い、腰も痛くなってきた
と不調三拍子を従え、
次の一年の節目、節分(季節の大晦日)を待っておりました。

 人生、何事も区切りをつけなければなりません。

節目を大切に、次に気持ちを切り替えなければなりません。

思いっきり失敗をしても、
「ほら、節分で豆まきして、次に気持ちを切り替えるから」

と、冷ややかな眼差しでテラのヨメに小言を言う
住職に言い訳をする嫁でした。


そして
気持ちを入れ替えるには最高のお天気、

2月3日水曜日

本堂、護摩堂にて星祭り供養大祈祷会が厳修されました。

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檀信徒の皆さんが星に願いを込め、
今年一年の家族の安泰を祈願します。



さらに、今年もわざわざ遠方より、
星祭りにあわせて


映画の主題歌まで唄われた現役本物の歌手の
朝倉美沙さんに、
一乘院まで来ていただきました。


朝倉さんは、
とても小柄な方で、
お話しをしてもおっとりと話される
ふわふわ系女子です。

そんな朝倉さんですが、
人前で歌を披露するときは

びっくりするぐらい
綺麗な歌声と
堂々とした態度です。

彼女の歌声には、全く誤魔化しはありません。


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しかし、
ご本人のブログ 朝倉美沙オフィシャルブログ みさのへや

で公表していますように、

現在、彼女はガンの治療をされいています。

抗がん剤治療の結果、
まつげも、あの長くて綺麗な髪も抜けてしまったそうです。

参拝に来られた方は、その事実を初めて知りました。


この長い髪は
ウィッグ(かつら)であり、
三日後には再手術を受けること。


朝倉さん自身の口から、
お参りに来られている方に伝えられました。


実は
昨年の一乘院の星祭りの時点で既に、

ご自身がガンに罹っている事を知っていたそうです。


しかし、ガンの治療を開始した場合、
頭髪が抜け落ちる可能性は十分考えられました。
手術の可能性も十分考えられました。


人前で歌うのが彼女の仕事。



悩んでいた朝倉さんでしたが、


一乘院の檀信徒の皆さんと

「また来年も会いましょう」

と約束をされたそうです。

そして
その約束を守るために彼女は治療を始め、

今年再び、皆さんの前で歌を披露してくれました。

お参りに来てくれた檀信徒の方の中には、
同じガンの治療をされた方もいました。

そして、自分の息子や娘と同じ年頃の朝倉さんの
一生懸命に歌う姿に感動し、涙を流していました。


また、来年も会いましょう。

みんなが口を揃えて朝倉さんに残した言葉です。

昨日の朝倉さんのブログにて、無事に手術が成功したと聞き、
ほっとしています。

ご自身が病気に罹りながらも、
人との繋がりを大切にされ、

そして歌で感動を届け、約束を果たしてくれた

朝倉美沙さんの姿に

感謝しております。



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テラのヨメ

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上記の写真には

雲仙の歴史

701年  大宝元年 行基、温泉山に満明寺を開いた。
713年  和同6年 肥前風土記に「高来の郡」の地名の由来が記された。
1549年  天文18年 ザビエルが薩摩(鹿児島)に上陸。以降、九州各地にキリスト教が     広まった。
1571年  元亀2年 「白雀の乱」満明寺の僧が争いを起こし、僧達を2分しての争いに発     展した。戦火で寺が焼失。
1587年  天正15年 豊臣秀吉が宣教師追放令を出した。キリスト教弾圧の始まり。
1596年  慶長元年 キリスト教徒26人が長崎の西坂にて処刑された。
1613年  慶弔18年 徳川家康がキリスト教を完全禁止とした。幕府によるキリシタンの     国外追放や、教会の破壊などのキリシタン弾圧が強まった。
1627年  寛永4年 松倉重政のキリスト教徒迫害が過酷となった。「山入り」と称して教     徒を雲仙に送り、地獄責めで改宗の強要が続いた。
1653年  承応2年 加藤善左衛門が雲仙に湯治場「延暦湯」を開いた。



と記されている。

これは、雲仙の温泉街にある「雲仙お山の情報館」内に展示されている年表である。

雲仙はというと…

年表にもあるように、行基開創の仏教の霊場であった。温泉山満明寺は、近世には、瀬戸石原に三百坊、別所に七百坊を有していたという伝承が定着しているが、実際それに近い壮大な寺観を有していたと思われる。

しかしながら、時の日野江城主、有馬晴信がキリスト教に入信し、天正八年(1580)領内の寺社破壊が決行され、温泉山(現在の雲仙)一山は破壊されている。
永禄六年(一五六三)来日し近畿・九州各地でキリスト教を布教したポルトガルのイエズス会士フロイスの著作『日本史』には、

巡察師が滞在した三ヶ月間に、大小合わせて四十を超える神仏がことごとく破壊された。それらの中には、日本(中)で著名な、きわめて美しい幾つかの寺院が含まれていた。
                          〔『日本史』第二部二〇章〕

温泉(うんぜん)と呼ばれ、日本では盛んな巡礼をもって知られる豪華な神殿‥‥‥その神殿は有馬の城の上、三里の地にあって、そこには大いなる硫黄の鉱山がある。神殿や僧院、および神仏像は、ドン・プロタジオ(有馬晴信)の改宗後に破壊されていた。
                          〔『日本史』第二部五三章〕

とあり、当時の無惨な状景がうかがえる。
さらには薩摩島津氏の家老であった上井覚兼の『上井覚兼日記』に

當郡南蛮宗にて温泉坊中無残破壊候
                      〔天正十二年(一五八四)四月八日条〕

と述べ、さらには

言語道断、殊勝之霊地不申及候、悉荒廃之躰無是非候、四面大菩薩漸礎計残候
                      〔天正十二年(一五八四)五月一日条〕

述べており、『日本史』の記事を裏付けている。

尚、上記年表の1571年 元亀2年 「白雀の乱」は、有馬晴信がキリスト教に入信した時代とほぼ一致することから、フロイスの言う寺院破壊(キリスト教徒による)であろう。

また、温泉山満明寺は、寛永14年(1637)島原の乱により堂宇すべてを焼失、壊滅した。島原の乱の翌年(1638)11月、島原藩は松倉城主に代わり遠州浜松城主高力摂津守忠房公が城主に着任している。その家臣善左衛門清輔(現、雲仙湯元ホテル加藤家の先祖)の兄、当山中興弘宥法印(遠州浜松鴨江寺出)が島原城主高力摂津守忠房公の守護を賜り寛永17年(1640)大定院の旧地を再興し「温泉山一乗院」として復興する。

 安永7年(1778)6月の『温泉山起立書』によれば、

温泉山真言宗一乗院儀
本寺京都
御室御所
 仁和寺宮直御末寺ニ而御座候
山号 温泉山
 此山号之儀往古ヨリ之山号ニ而御座候
 尤熱湯涌出ニ付候御山号ニ而御座候
寺号 満明寺
是も往古ヨリ之寺号ニ而繁昌之時分ヨリ一山之寺号ニ而御座候

とあり、寺号の満明寺は温泉山一山の寺号として用いられていたことがわかる。
一乘院縁起書によれば、土中より三寸余りの五智如来像が出土し、本尊として崇め奉ったとされる。さらに中興二世宥誉法印は、島原半島の人民に信心をおこさせるため、五智如来像造立を発願して城主高力忠房公に申し上げ、城主の命を受け寛永19年(1642)5月、摂州大坂に行き、造立成就し同年9月、温泉(雲仙)に帰り入仏し、翌寛永20年(1643)9月、本社拝殿を造営成就している。

「雲仙お山の情報館」の年表には、この事実が完全に消されているのである。

温泉山(現在の雲仙)開山以来、山を護持してきた寺院が壊滅したのである。雲仙の歴史を語る上で、これ以上の事件があったであろうか。

昨日、長崎の教会群とキリスト教関連遺産の世界遺産への申請がやり直しになったニュースが流れたが、行政がこのような年表を作り歴史をねじ曲げてまでして登録したい世界遺産とは何なのだろう。
所詮、観光客目当ての客寄せパンダといった所か。

歴史は正しく後世に伝えるべきだということは、小学生でも分かることだ。それを時の権力者の事情によってねじ曲げるということは、あってはならないことである。

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